29歳で西方浄土へ旅立った「中将姫」

 日本三浄土曼荼羅の1つ、當麻曼荼羅(たいままんだら)を造った中将姫(ちゅうじょうひめ)は、743年(天平15年)8月18日藤原鎌足の曾孫(ひまご)・藤原豊成(とよなり)と紫の前(むらさきのまえ、百能、當麻氏の出)の間に、父と母と姫の屋敷が三棟並んだ東木辻町の「三棟殿」と称する浄土宗の尼寺、「東木辻の三棟誕生寺」で生まれ、天平の華を開かせた聖武天皇の妃・光明皇后と共に藤原一族を代表する二大女性の一人です。
なお、誕生寺(TEL 0742−22−5333)は、正式に「異香山(いこうざん)法如院誕生寺」と称して、本堂に「中将法如尼坐像」を安置し、今でも裏庭に姫が産湯を使った井戸があり、本堂の拝観は要予約で500円です。

 747年(天平19年)中将姫が5歳の時、母が亡くなって、橘諸兄の息女・照夜の前が継母になりましたが、中将姫は幼い時から才能が世に知られ、749年(天平感宝元年)7月2日聖武天皇が皇太子の阿部内親王33歳へ皇位を禅譲(ぜんじょう)し、第46代孝謙(こうけん)天皇が即位した頃のことです。この頃、弟・豊寿丸(とよじゅまる)が誕生すると、それまで慈しんでいた中将姫を継母・照夜の前が嫌う様になりました。

 751年(天平23年)中将姫は9歳の時、女帝孝謙天皇の前で催された祝賀の宴で琴を演奏し、女帝からお褒めを頂き、後に三位中将の位を賜り、才能と美貌を備えた姫として成長して、752年(天平勝宝4年)4月9日大仏開眼法要で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らが行幸し、文武百官、印度や中国の僧侶も入れて約1万人が参加した中に、中将姫も父・右大臣藤原豊成、継母・照夜の前と共に参詣していました。なお、この頃、照夜の前は、毒入りの甘酒を中将姫に飲ませ様とした所、その甘酒を照夜の実子・豊寿丸が横取りして飲み、死んで終ったのに、照夜はこれを逆恨みしました。

 756年(天平勝宝8年)5月2日聖武太上天皇が56歳で崩御された年、中将姫は14歳の雪の降る朝、継母・照夜の前に盗みの疑いをかけられ、老松の下で割り竹打ちの折檻を受けましたが、この事は後に歌舞伎「中将姫雪責」、江戸時代の人形浄瑠璃「ひばり山姫捨ての松」として上演され、「誕生寺」の筋向いにある立派な門構えの融通念仏宗豊成山「徳融寺(TEL 0742−22−3881)」の境内墓地に昭和29年頃まで老松の切り株がありました。また、ある時、継母・照夜の前は、家来に命じて姫を境内奥の崖の上から突き落としたが、姫は日頃の信仰の力に助けられ、太陽のごとく空中にふわりと浮かび、何1つ怪我をせず、今でも崖の上に「虚空塚」があり、崖下の墓地を囲む土塀の裏には昭和33年の赤線廃止まで遊郭がありました。

 757年(天平宝字元年)7月12日橘奈良麻呂(橘諸兄の子)の乱に加担したかどにより、父・藤原豊成が大宰府に流罪の刑を下されたが、父は病(やまい)と称して自分の別邸があった難波に籠り、姫は人の世の無常を如実に知らされ、大宰員外師として左遷されていた父から、奈良市井上町の町家に挟まれた所に建つ豊成山高坊「高林寺」に唐から輸入の経典が送られ、姫は信仰心を更に高めましたが、

 758年(天平宝字2年)3月中将姫が念仏を唱えるのが気に食わない継母・照夜の前は、家臣の松井嘉藤太春時に命じて、中将姫16歳を奈良県大宇陀市菟田野(うたの)の雲雀山(青蓮寺)へ捨てる様に云ったけど、中将姫を哀れに思った松井嘉藤太夫婦が囲まって、助けて呉れました。後に中将姫は、松井嘉藤太(かとうた)春時・静野夫妻の姿を手ずから彫って堂を建立し、阿弥陀堂に中将姫坐像が祀られ、境内には嘉藤太夫妻の墓所も在り、また、山門下の無常橋を渡った七曲の坂に中将姫が詠んだ歌「なかなかに山の奥こそ住みよけれ、草木は人のさがを言わねば」の歌碑が建っています。

 760年(天平宝字4年)6月7日光明皇太后が60歳で崩御されたが、皇太后の異母兄・南家藤原武智麻呂の長子が中将姫の父・藤原豊成で、父の同母弟に仲麻呂がおり、父の異母弟に乙麻呂・巨勢麻呂がいて、父の妻として藤原百能(京家麻呂の女)、路真人虫麻呂の女(継縄・乙縄の母)、北家房前の女(縄麻呂の母)もいて、また、中将姫の兄弟に武良士、継縄、乙縄、縄麻呂らがいました。

 764年(天平宝字8年)9月大宰府行きを無期延期して隠遁生活を送っていた父が、弓削道鏡(ゆげノどうきょう)排斥に失敗して失脚した恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の後、従一位右大臣に復帰して雲雀山へ狩に来た時、22歳になっていた中将姫と再会し、「たかんぼう」と云う名で親しまれていた奈良市井上町32の「高林寺(TEL 0742−22−0678、拝観は要予約、志納金寸志)」へ帰宅しました。なお、765年(天平神護元年)11月27日に父・藤原豊成が62歳で亡くなって、豊成公の古墳は今も「高林寺」にあります。また、後に兵火で焼かれた「高林寺」には高坊一族が住み付、400年前には連歌師、医者らが奇遇して、茶道、歌道、華道などの文化活動を盛んにし、「高坊茶室」が発展しましたが、いつの間にか寺地も狭くなり、廻りに小間物店などが建ち、昭和63年に茶室高坊が再建され、毎月13日14:00〜、「中将姫ご縁日のおつとめと法話」が行われています。

 766年(天平神護2年)中将姫24歳は、世をはかなむ事なく、燃えるような信仰心で出家する事を思い立って當麻寺の塔頭「中之坊(TEL 0745−48−2001)」へ出かけましたが、当時の當麻寺は女人禁制で、中将姫の入門をなかなか許さず、そこで姫が許しを得るべく数日間裸足で石の上に立ち一心に経を唱えていると、足が石にめり込み奇跡が起ったので、とうとう十一世實雅法印(じつがほういん)が女人禁制を解き、中将姫を迎え入れ、剃髪して中将法如尼(ほうにょに)の名を授けましたが、「中之坊」の本堂(中将姫剃髪堂)には、姫の守り本尊「導き観音」が安置され、本堂の横を通って大和三庭園の1つ、国の史跡名勝「香藕園」へ入る門の脇に、今でも中将姫の小さな足跡が残る「中将姫誓いの石」が置かれています。

 768年(神護景雲2年)藤原氏の氏神「春日大社」が創建された年、中将姫26歳は、藤原一族の信仰心を結集して、後世に浄土念仏信仰の証を遺す為、「仏がこの世にあるならば目の前に現れたまえ」と祈念していると、老尼が現れ「我は長谷観音の化身である。蓮の茎の糸で曼荼羅を織るがよい」と命じたので、近江、大和、河内から蓮華を集めて蓮糸を取り、浄土宗「石光寺(せっこうじ、TEL 0745−48−2031)」の境内にある「染の井(そめのい)」で五色に染め、傍らの「糸掛け桜」に干しかけたら、織姫が現れて一晩で一丈五尺(約4m四方)の曼荼羅を織り上げました。それが現在「當麻寺の本堂(曼陀羅堂)」の内陣正面にある国宝「当麻曼陀羅厨子(左右3面ずつの観音開きで、黒漆塗に蓮池などが蒔絵で描かれ、内側に2千人超の結縁者の名が連なり、鎌倉4代将軍九条頼経、3代執権北条泰時らの名もある)」に安置されている重文「浄土曼陀羅絹本著色掛幅(文亀曼陀羅図)」で、その後、中将姫は人々に念仏を勧め、自らも修行をしていると、

 771年(宝亀2年)3月14日中将姫29歳の時、生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が現れ、中将法如尼を生きながら西方浄土へ迎えました。その西方浄土への旅立ちの様子を再現したのが、毎年5月14日二上の馬の背に夕日が沈む頃、當麻寺の境内で行われる「練供養(ねりくよう)」で、なお、中将姫の墓塔「十三重石塔」は、當麻北共同墓地に建っています。




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